KAGAMIZU
渡邉泰己杯 第13回 宮崎鏡洲の森トレイル – 26km
3月の大会を風邪で欠場したので、前回の1月からだいぶ間が空いてしまった…
鏡洲は水と木漏れ日の森…
渇きは癒え、一気に瑞々しさが戻ってきた…
ファッション
他者と向き合い話す、服を纏う…
同じように、思想や倫理観は、世の中に話しかけている…
そのすべてが独り言…
鏡を見て、自分に話しかけている…
答えを持たず、何らかの均衡を保とうとしている…
止めることはできない…
それは意識の生業であり文明そのものでもある…
人は裸では生きれなくなった…
ただ、依存し過ぎていないだろうか…
進歩や成長とは何か…
そもそもそれらはありえるのだろうか…
それらは私たちを騙すものではないだろうか…
意識は善悪や正解を創造する…
暴力と依存が始まる…
働かないと落ち着かなくなり、
働くことが正常だと勘違いする…
終わらない争い…
終わらない格差…
終わらない汚染…
終わらない動物の犠牲…
人は裸で生きることができなくなった…
戻れないのかもしれない…
それでも相応しい未来を向いていたい…
生きるものとして…
Jiddu
すべての生物に、刺激、反応、データが連携した過程はある…人と他の動植物を分けているのは観念だろう…観念は対象化の産物であり、環りにくさ、鈍さ、逸れに繋がっている…目標や理由は人の作り物だ…他の動植物に見られる目標や理由は、見ている人が作り出しているものに過ぎない…
「為す」とは、成功、獲得、進歩、進化、成就、完成、勝利、成長‥荘子が嫌っていたこと…人はそれらに「正解」を見るようになる…「為す」ことによって人は恩恵を得るが、同時に何かを犠牲にしている…食べ食べられ環っていくものではなく、ゴミを生むようなあり方…「正解」によって犠牲はいつも過小評価され、因果関係さえ無視されるようになる…それは一種の暴力であり、病の症状でもある…
動物を食べないのは、単純に「食べたくない」からだ…或いは「他に食べるものがある」から…倫理でもなければ環境とか健康でもない…食べない方が無理がなく心地いいから…頭で考えた結果ではない…人を食べたくない気持ちと変わらない…
走ることは一種の瞑想だと思っている…「私」を緩める作業…瞑想とは荒療治なのではないだろうか…つまり走る必要もなければヨガをする必要もない…何かを取り戻すためにわざわざやること…生きるものとして、人は荒療治を必要としている気がする…
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
▪️第5章 行為と観念
私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている
あのようになりたいという絶え間ない葛藤が
私たちを苦しめつづけている
「さて、経験を構成しているこの三者−行為者、行為、目的(および結果)−は、明らかに何かになる過程なのです。もしそうでなければ、何かになるということは起こらないのではないでしょうか。もし行為者もなく、ある目的に向かう行為がなければ、何かになるということはできません。しかし周知のように、私たちの日常の生活は、常に何かになる過程にほかならないのです。「私」が貧乏であれば、金持ちになるという目的を持って行動します。「私」が醜ければ、美しくなるということを望みます。こういうふうに、「私」の生活は何かになる過程なのです。生きる意志というのは、意識の様々な異なったレベルで、またいろいろな違った状態の中で、何かになろうとする意志なのです。そしてその過程の中で、刺激、反応、命名、記録などが生じてくるのです。ところで、この何かになるということは葛藤であり、苦痛ではないでしょうか。つまり、「私はこれである。だから私はあれになりたい」ということは、絶え間のない闘争にほかならないのです。」(p55)
Jiddu
私や自己と呼べるようなものは、人だけではなく動植物にもあるように思える…ただ人の意識/思考は、対象化によって、他の動植物にはない自我を作り出す…それは環りにくさ、あるいは鈍さの現れなのかもしれない…クリシュナムルティは創造的であるべきだと言う…自我を緩める必要がある…その先には、より広い視野と謙虚さがあるのではないだろうか…
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
▪️第4章 自己認識
あるがままの自己を知ること−自己変革こそ
真の革命と呼ぶことができる
「世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。…私たちの精神の働きがあまりに鈍重なので、世界の問題は私たちに関係ないし、そういう問題は、国際連合とか新しい指導者が解決するべきものだと考えてしまうのです。こういうものの考え方をするのは、その人の精神があまりに鈍感だからです。」(P40)
例えばガザの悲劇を私たちはどう捉えているだろうか…私たちは悲劇が作られる社会の一員として日々過ごしている…そういう社会を作り育てている…それは大袈裟な解釈ではない…大袈裟(そして都合がよい)なのは私たちの日頃の行いの方ではないだろうか…お金を稼ぎ使うことに明け暮れる…ゴミを作り出し、車を運転し、道徳で武装し、便利や優位を追求する…身体で生きないといけない…場所に生きないといけない…身の丈でないといけない…
「生きるということは、私たちがお互いに関係を持っていることであり、孤立して生きることではないのです。…この世界に対立や悲惨や闘争が起こるのは、私たちが正しい人間関係を欠いているということが分かります。…私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができたなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。」(p41)
「私たちはたいてい、常に不満を持ち、その状態から急激な変化が現れることを望んでいるのですが、結局、私たちは何かある目に見える結果を得ることで、この不満にたやすく捌け口を与えてしまうのです。…その結果、私たちは骨の髄まで凡庸に堕して、私たちの存在の全体の意味を発見しようとする気迫も熱意も失ってしまうのです。」(p42)
「変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。しかし、このあるがままの自分を知るには、非常に敏捷な精神を必要とします。…あるがままのものは絶えず変化や変質を受けているので、その動きを迅速に追っていくためには、精神はいかなる教義や信念や行動様式にも拘束されてはならないからです。」(p45)
「創造的状態の中には自我というものがなく、もはや精神は、私たちの経験、野心、快楽の追求、欲望の中心、あるいは要ではなくなっているのです。創造力は持続的状態ではなく、一瞬一瞬の新しい、一つの動きなのです。しかもこの動きの中には、「私」とか「私のもの」といったものは存在せず、またそこでは、思考は特定の体験、野心、功績や、目的とか動機といったものに囚われなくなっているです。」(p50)
勝手に生きて何が悪い…その通りだと思う…どちらかというと勝手に生きることをクリシュナムルティは推奨している…ただ何の観察もなしに勝手に生きても、人社会に飲み込まれて勝手に生きることはできないだろう…
できるだけお金に頼らないようにするとか、可能なら自分で作物を育てるとか、そういう試みや規範こそ生きる者に相応しい…
百年と一日
百年と一日(2020)
著 柴崎友香
ある映画のパンフレットにエッセイが掲載されていた…
著者との最初の出会いだった…
「百年と一日」を読んでみることにした…
買ってから短編集ということに気づいた…
目次を見ると約30のエピソードを数えることができた…
毎日ひとつのエピソードを読むことが習慣になった…
順調に読めばひと月で読み終える計算だ…
ほぼひと月で読み終えた…
流れる年月と些細な出来事…
日常、あるいは私たちの物語…
偶然と想像…
Jiddu
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
▪️第3章 個人と社会
真理を発見するためには
あらゆる主義・主張から自由でなければならない
社会は貪欲と羨望−優越したものに対する
あなたの羨望を根底にしている
「観念というものは、常に敵意と混乱を生み出します。ですから、もしあなたが左派や右派の思想の本や、あるいは聖典などに依存しているならば、あなたは、仏陀やキリストや、資本主義や共産主義などの単なる「見解」に依存しているのです。…今までに他の人たちが言ったことを捨てることが必要ではないでしょうか。」(p28)
「社会は「あなた」と「他の人」との、「あなた」と「私」との人間関係の働きなのです。それゆえ、この不断の内部の革命と、この創造的な心理の変換がないかぎり、その社会は静的なものになり、活気のある働きを喪失してしまうのです。社会が常に静的で固定化し、そのため繰り返し粉砕されなければならなくなるのは、この内部の革命を欠いているためなのです。…ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが世界になっているのです。もし、私たちの心の内部が悲惨で、混乱したり、混沌としていれば、その投影されたものがそのまま世界や社会になるのです。」(p30-31)
「この社会は貪欲と羨望−優越者に対するあなたの羨望−を根底としています。…羨望は、私たちの人間関係の中で最も破壊的な要因のひとつになっています。…「あなた」と「私」の関係には、表面的には尊敬の形を装っていますが、実際には多くの悪意が存在しているのです。…ここから、嫉妬や腹立ちや怒りが生み出され、さらにこのような感情が私たちの人間関係の中に絶えざる闘争を引き起こすのです。…信念というものは、愚かさを示しているのです。なぜならば、信念は人間関係を分離させるもので、結合させるものではないからです。」(p32-34)
「外部の行為は、ひとたび完了して片付いてしまうと、静止してしまいます。そして、もし社会を構成する個人と個人の関係が、心の内部の革命の結果として生まれなければ、その社会機構は静的なものになって個人を吸収し、その結果、個人をも同じように静的で反復的なものに変えてしまうのです。…社会は常に固定化の傾向にあり、常に個人を吸収しようとしていること、また、不断の創造的革命は、社会や外部にではなく、個人の内部にのみ起こりうるということ、これは明白な事実です。」(p35)
「一体なぜ社会は、現在はっきりみられるように、音を立てて瓦解してゆくのでしょうか。その根本的な理由の一つは、個人が、「あなた」と「私」が創造的でなくなってしまったからなのです。…つまり、「あなた」と「私」が模倣的になり、外面的にも内面的にも模倣しているということなのです。…あなたは、創造的な瞬間や、生き生きとした興味を感じるあの幸福な瞬間には、反復や模倣の感じがないことに気づいたことがないでしょうか。こういう瞬間は、常に新しく、新鮮で、創造的で、幸福なのです。このようにして私たちは、社会の分解の原因の一つはこの模倣であり、模倣は権威の崇拝にほかならないということが理解できるのです。」(p37-38)
争いや混乱であれ、その状況を「静的」と表現している…それは躍動する生と、追従できない知性とのギャップなのかもしれない…慌ただしい競争社会も、それは個人が鈍くなっていることの現れなのであり、逆に個々のパフォーマンスが上がることによって、社会はゆとりと平穏を取り戻すと…
ホッブズの自然状態を思い出すが、もっと柔軟に考えるべきだろう…ホッブズの自然状態は、思考を介した状態であり、人間の本来の姿というわけではない…知性によって病的になってしまった人間の姿なのであって、人には別の可能性、本来生きるものが持っている共生の感覚があるように思う…クリシュナムルティに言わせれば、ホッブズの自然状態は「静的」な状態だ…その状態から考えるのか、それとも別の可能性を含めて考えるのか…
今の社会を変えたいなら、政治や宗教や思想ではなく、個人の改革が必要だとクリシュナムルティは言う…こういうとそれは理想に過ぎないと言われそうだが、クリシュナムルティはそれが唯一の道だと言う…目の前のことに取り組むことは確かに必要だが、それによって何かが変わるだろうか…事態は悪化しているようにしか思えない…私たちはこの理想を無視し過ぎている…
Jiddu
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
▪️第2章 私たちは何を求めているのか
「神」を発見する旅に出る前に、まず自分自身を理解すること
「全く当たり前のこととして、私たちは喜びを求め望んでいます。これはひどく乱暴な言い方かもしれませんが、現実に私たちが望んでいるものとは、私たちに喜びを与えてくれるような知識や経験や、明日になっても凋んでしまわないような満足なのです。私たちは満足感を与えてくれるものを今日までいろいろと実験してきました。しかしその結果、それらすべてがはかなく消えてしまったのです。そこで今度は、「真の実在」といったものに恒久的な満足を見出そうとするのです。…ところで、永続する満足とか持続するものは、果たして存在するのでしょうか。…真理というものは、あなたが考えているものと全く違うものかもしれません。真理というものは、あなたが見たり、想像したり、公式化したりできるようなものとは全く異質なものである、と私には思えるのです。…それでは、この求めている人と、求められている対象とは違ったものでしょうか。…それらは別個の過程というよりはむしろ、一つの一体化した現象ではないでしょうか。従って、求める対象を発見する前に、それを求めている人間、すなわち「私」を理解することが、とりわけ重要なことではないでしょうか。」(p21-22)
「自分自身を知るということ−この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。」(p23)
1章と違う切り口ではあるが、ほぼ同じ内容が語られている…クリシュナムルティは真理(神でも道でも自然でも生でも一切でもいい)のことは語らない…それぞれで見つけないといけないと言う…僕の考え方だと、それは言葉がとらえる「対象」となりえないものだ…従って思考は「分からない」と言うしかない…何かが「在る」というよりも、それは「一切」なのだろう…逆に私たちが思考できるもの、つまり「私」とか「国家」とか「机」とか「風」とか、それらは思考の中にしかない…
何かを信じていると言うよりは、とにかく知り得ないものがあって、それを無視するとロクなことがない…だからできるだけ逆らわないようにしたほうがいい…でも正直どうしたらいいのか分からない…永遠に手探りなのだろう…少しでも無理がなく平穏でいられるならそれでいい…
Jiddu
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
生きていることと、人社会で生きることは違う…人社会とは、言葉、思考、道徳、欲望などが形作る世界のこと…人社会に合わせようとすればするほど、なにか抜け殻になるように感じてしまう…人社会で成果をだすことは鈍くなるリスクを孕んでいるのではないか…組織に入ったり、投票したり、資格を取ったり、お金を稼いだり、営業や宣伝をしたり、便利や勝利を追求したり、熱狂したり刺激を求めたり…そんなことは望んでないし不快だしズレを感じる…ただ生きるものとして、相応しい生き方をしたい…
▪️第1章 はじめに
あるがままのものを、あるがままに見よ
サブタイトルは Thich Nhat Hanh の言う”マインドフルネス”とリンクする…態度、準備に関わる言葉だろう…それがすべてではないかとも思う…
「真理は誰か他の人から与えられるものではなく、あなたが見つけ出さなくてはなりません。…私たちが自分の置かれている生活背景や偏見に従って物事を解釈したり、説明しはじめたとき、すでに私たちは真理を取り逃してしまっているのです。」(p5)
「あなたはバガバッド・ギーターや、聖書や、政治や心理学に関する最新の論文をひもとくかもしれません。しかしそれらはいずれもかつてもっていた真実の響きや本質を、今はすでに失っていることに気づかれることでしょう。…単に他人の言ったことを繰り返してみたところで、何の意味もありません。…あなたがそれを繰り返せば、あなたはすでにあなた自身の「今の状態」を理解することをやめてしまっているのです。あなたはあなた自身の混乱を、権威ある言葉で覆い隠しているに過ぎません。」(p8)
「あるがままのものを認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。…あるがままのものは絶え間なく活動し、絶えず変化しているからです。…もし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなくなってしまいます。」(p6)
これらの言葉も何の意味もない…
クリシュナムルティが「精神」という言葉をどう捉えているのかまだ分からないが、僕は「精神」という言葉に特別な地位を与えるつもりはない…精神を心とか魂に類するものと考えるなら、それは「身体」の属性だと思っている…おそらく他の動物や植物にも備わるもの…思考や知性に類するものと考えるなら、それは対象化する装置だ…デカルトのような二元論ではなく、スピノザのような汎神論で考えたい…思考そのものは「自然」かもしれないが、思考が見せてくれるものまで神は面倒を見ない…
場所に生きる/身体で生きる
人は答えを失くした動物だ…
地球上で唯一生き方を忘れた動物…
他の動植物は違う…
常に答えを体現している…
知性を使う限り、考える限り、答えには辿り着けない…
知性、思考によって人は逸れていく、歪んでいく…
逸れるとは、
ゴミ、病気、ストレスを招くこと…
争い、格差、差別を招くこと…
与えることなく奪うこと…
環らないこと…
鈍くなること…
そして欲望に振り回され、
道徳で武装すること…
場所に生きないといけない…
身体で生きないといけない…
そのとき、思考とは答えに辿り着くためのものではなく、
答えと対話するためのものなのだろう…
おそらく私たちも答えを体現している…
それしかできないはずだから…
そもそも答えとは思考がつくりだしたもの…
この生きている世界にフィットさせたい…
理由や目標や成果を緩めながら…
Ralph Towner
ジャズは黒人音楽だと言われ、本国アメリカで受け入れられず、ヨーロッパが受け皿になっていた…ECMはアーティストを繋いだ…ラルフ・タウナーも北欧のジャズメンと演奏した…学生時代、僕が聴いていたのは「SOLSTICE」だった…パット・メセニーがグラミー賞を受賞した頃、ラルフ・タウナーはどれだけ聴かれたのだろうか…
Ralph Towner(1940-2026)
